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江戸時代のはじめ1696年、相良藩は高橋政重に開田に必要な水利施設の工事を命じました。水路工事は1〜2年でほぼ完成したものの、堰の建設は難航しました。完成直前の1699年に 球磨川が大洪水となり、堰は流されました。復旧工事が終了した直後の1701年大洪水が発生し、再び堰は流失しました。藩が工事再開の資金拠出に難色を示したため、政重は村々を歩いて水利施設の必要性を訴え、資金集めに奔走しました。やがて、藩は政重の努力を認めて工事再開の許可を出し、1705年に完成しまし た。工事を着手してから10年目のことでした。
高橋政重翁 幸野溝大堰築造の図
江戸時代のはじめ、人吉地方を収めていた相良藩は新田の開発に熱心でした。
藩は高橋政重に、水を引いて田んぼにできる土地がないか調査するよう命じました。
政重は現在の湯前町・多良木町・あさぎり町岡原一帯に広い荒れ地があることを報告し、藩は政重に用水路をつくることを命じました。1696年、政重が47歳のときでした。
工事は、球磨川をせき止めて水を取り入れる「堰」の建設と、水路を掘る工事、そして荒れ地を田んぼにする工事の3つがありました。
このうち、水路を掘る工事は1、2年でほぼ完成しましたが、堰の建設は難航しました。
苦心してようやく完成するかに見えた矢先の1699年6月20日、球磨川は大洪水に襲われ、堰は流されてしまいました。
そしてようやく復旧工事が終わり、今度こそと思われましたが、二年後の1701年5月には再び大洪水に見舞われ、堰は根こそぎ流されてしまったのです。
二度続いた工事の失敗は、政重ならずとも大きな期待を寄せていた農民にも大きなショックでした。
このためせっかく掘った水路や田んぼは三年間ほど放置されたままになっていましたが、政重は再び立ち上がりました。
しかし藩は工事再開の資金を出すことを渋りました。
そこで政重は村々を歩いて用水路の必要なことを時、資金集めを始めました。このとき政重は、日頃から信仰する十一面観音様を背負って一軒一軒訪ね歩いたと伝えられています。
こうした政重の努力は藩にもようやく認められ、1705年に工事が再開されました。
あいつぐ不運を乗り越えて用水路は無事完成しました。
取水している土地の名を取って幸野溝と名づけられました。
政重が最初に工事を手がけてから十年目のことでした。
高橋七郎兵政重は禄高100石の相良藩士。啓安3年(1650)肥後人吉に生まれ、享保11年(1726)6月25日没。享年77歳。大村字辻、香水庵(現在の人吉市南泉田町大真寺東側の墓地)に葬られ、諡して精徳軒巨巖玄霊居士という。
政重は、藩から、水を引いて田んぼにできる土地がないかどうか調査するように命ぜられ、現在の湯前町・多良木町・あさぎり町岡原一帯に広大な荒野があることを報告した。そこで藩は、政重らに幸野溝の掘削を命じ、元禄9年(1696)に工事着手。工事は、球磨川をせき止めて水を取り入れる「堰」の建設と、水路を掘る工事、そして荒れ地を田んぼにする工事の3つがあり、このうち、水路や田んぼの工事は先に完成したようだが、堰の建設に難航、2度の大洪水に見舞われ、根こそぎ流されてしまった。
この工事の失敗は、農民にも大きな衝撃で、せっかく掘った水路や田んぼは3年間ほど放置されたままになってしまった。
政重は再び立ち上がり堰をつくると願い出たが、藩は工事再開のための資金を出すことを渋ったので、政重は村々を歩いて溝の必要性や完成の可能性などを説き、資金を集めた。
こうした政重の努力は藩にもようやく認められ、宝永2年(1705)になって工事が再開。
そしてこの年、遂に湯前町から上村までの幸野溝が完成したのだった。
毎年、地域の人々が多数出席し、 「慰霊祭」、「墓前祭」を行っています。
慰 霊 祭(多良木天満宮) | 墓 前 祭(福 田 寺) |
市房ダムの建設に伴い、昭和33年から42年にかけ、幸野ダム(球磨川)のほか水路等の大改修を行いました。その後40年経過後、漏水が目立つようになっ たため、平成9年から平成16年にかけて県営かんがい排水事業(UR関連)により大改修を行いました。
また、昭和35年の市房ダムの建設に伴い、あさぎり町岡原から錦町の永野地区まで新幸野溝(水土里ネット中球磨管理)が新設されました。新幸野溝の新設によ
って、畑地帯であった地域が美しい水田となりました。
記録写真(昭和初期) | ||
隧道合掌造り |
幸野溝大改修 昭和初期の幸野溝大改修風景 現在の湯前町野中田 |
記録写真(昭和中期、平成) | ||
幸野溝取水堰堤
(昭和30年頃) 江戸時代から昭和33年水没するまで使用されていた幸野溝取水堰堤 |
旧取水堰堤
(平成17年) 平成17年度 幸野ダム改修のため姿を現した旧取水堰堤 |